高校3年の春。
私と同じ高校に通うカップルが、公園でハグしているのを目撃した。
衝撃だった。
あれから17年。
あの公園に行ってみようと思う。
運動部のあいつが彼女とハグするのを見た日
なんなんだよーー
それは当時通っていた長岡駅東口の「代ゼミサテライン予備校」で講義を聴いたあと、自転車で自宅に帰る夕方だったように思う。
私がまだサッカー部を引退していなかったはずだから、高3の春だったか。
部活にも精を出しながら、受験勉強にもそろそろ本腰を入れなくちゃと、そんな時期だった。

↑高校生のころの私
道中にある公園にふと目をやると、同じ高校に通う、私と同学年のカップルがいる。
男子のほうは運動部に所属しているスラっとしたハンサムで、その部活のジャージを着ていた。
公園にはブランコがあって、どちらかがブランコに腰をかけていた。
次の瞬間、私に見られていることも知らず、ブランコに座っていた一方が手を広げ、そして二人はハグをしたのだ。
なんなんだよーー脳内で吐き捨てた。
目を逸らし、自転車のペダルを勢いよく漕いでその場を去った。
男子のほうがブランコに座っていたか、あるいは女子のほうだったか、どちらが手を広げてハグを要求したのか、いまでは記憶が曖昧になり判然としない。
いや目撃した瞬間から、直視できずにその光景を正しく捉えられなかった可能性もある。

↑高校生のころの私 その2
童貞どころか彼女もいなかった私。
ハグという行為は知っているけれど、私の知っているそれはゴールを決めたチームメイトを祝福するもの。
自分の知らないそれを、同学年のあいつらは知っている。
同じ年のカップルが連れ立っているのを見ることはあっても、直接的な行為を目にしたのははじめてだったかもしれない。
部活よりも、大学受験よりも大切なものがこの世にはある気がしたーー
あれから17年。
運動部のあいつがハグしていた公園に行こうと思う。
17年ぶりに例の公園に行ってみる

その公園にやってきた。
当時とちっとも変わっていない、気がする。
この近くにいまはなぜか河合塾マナビスになってしまった「代ゼミサテライン予備校」があり、そこに通うためにこの公園の脇を通ることも多かった。
あのころ覚えた英語の文法も、いまじゃ全然覚えちゃいない。

↑そしてこれが現場のブランコ

↑そうそう、私がハグをしていたのを見たのは、こんなアングルだったよ
ちなみにハグをしていたカップルとは、その両者ともクラスが同じだとか直接的な関わりはなく、話したこともなかった。
だけど、同学年の誰と誰が付き合っているとか、そんな校内ゴシップにはやけに敏感だったものだから、見かけたときもしっかりと”運動部のあいつのカップルがいる”と認識できたのだ。

↑ブランコに腰かけた方向からの目線
ハグするのを見かけたとき、公共の場所でなんてあけすけな行為に及ぶのだろうと思った。
ましてや同じ高校の男子に目撃されているのだぞ。
しかし、実際にブランコに座って見渡すと、公園の脇を同学年の誰かがチャリで通り掛かろうが気付かないかもしれない、と思った。
しかも好きな人を目の前にし、ハグを求められたんじゃ誰が理性的でいられようか。

↑ブランコに座ってみる
ブランコに腰かけながらするハグってどんなものだろう。
あれから倍の齢を重ね、こちらだって一応ハグの一つくらいしたことはあるけれど、相変わらずわからないまま。
もはやあの日のあいつと同じような気持ちでハグすることはもうかなわないだろう。
そのことを思うと、少しだけ胸が苦しくなった。

↑ロケは二日間にわたって行われました(さっきと服が変わっています)
隣りの中学校のカップルが溜まっていた橋の下で
私の記憶の中でカップルをうらやんでいた光景がもう一つ。
それは隣りの中学校の学区にある橋で、その橋の下でその中学校のカップルがよく放課後の時間を過ごしていたのだ。
当時中学生だった、それから高校生になった私はそれを苦々しく見ていた。
ケッ、中学生なのに男女交際だなんて風紀が乱れていると嘆いたが、それはもちろんうらやましさの裏返しだった。

↑これがその橋

↑コンクリートで舗装された、傾斜になっている部分によくカップルが座っていたのだ。当時と変わっていない。
京都の鴨川ではカップルたちが等間隔に座ると聞くが、新潟は長岡市では橋の下、川の両岸の護岸にそれぞれカップルが座っている光景があった。
中学の体操着を着て2人きりの時を過ごすカップルを見ながら、その学校の派手な緑色の体操着はなんてダサいのだと精一杯の負け犬の遠吠えを吐いては虚しい気持ちになっていた。


あのころ遠くから見つめていたカップルのようにその場所に座ってみれば、確かに日陰が作る空間に「プライベートスペース感」を感じる。
たしかにこれはいいかもなあ。
スマホもなく、中学生が携帯電話を持つこともそこまで一般的でなかった時代だ。
今思えば、好きな女子(男子)とひたすらおしゃべりして時を過ごしていたということにむしろ「健全さ」すら感じる。

↑一方の岸の橋の下に座ると、対岸の側に座るカップルの姿は橋脚で見えない。マジックミラーのようだね。
やれ純情だの、貞操観念のしっかりした自分でありたいだのと、彼女のいない自分を正当化しながら、心の中ではそんなのクソくらえだと思っていた。
自分もいつか橋の下に行ける日が来るのだろうかと悶々としながら、遠くからそれを見つめていたあのころ。
あれから幾星霜。
いまはそんな鬱屈した気持ちを抱いていたことも懐かしく感じる。
あのころの自分にまた会えた気がした。