「なんだこの声はーー」
録音で聞く自分の声に違和感を感じるというのは言い尽くされた”あるある”だが、そういうことを差し引いても自分の声の「変さ」にうちひしがれている。
ここ最近特にそう思うのは、我が子の動画を撮る機会が増えたから。
そこに入り込む己の声への拒否感といったら、将来その動画を見返した際に想起される娘のいたいけな姿への感動を、この変な声がかき消してしまうのではないかと思うほど。
知らない方にあえて説明するならば、男声にしては音域が高く、それでいて鼻にかかったようで、かつ滑舌の悪さもミックスされた、なんともいえないのっぺりとしたアホっぽい声質をこの世にお届けしているのである。
かつて西田敏行の声みたいと形容してくれた方がいたが、それはリップサービスであって(とそのときは気付かなかったが)、額面通りに受け取るのはいくらなんでも旭日小綬章を叙勲された名優に失礼過ぎる。
「人生の楽園」のナレーション、最高です。
かつてピロートークのネタを必死に考えていた自分よ、そのアホっぽい声ではどうにもカッコつきませんから!
ただ、こんな声でも利点はあって。
うじうじ悩みやすい私は、以前なら自分が話した何気ない言葉が冷たく響いていないかな、などと後から考えては眠れないことがあった。
だけど自分の声の「変さ」を自覚してからは、普通に話していれば常温くらいの温度は保っているだろうと、少し安心できた。
声変わりというものがあるように、声を失ってしまう人がいるように、この声との付き合いも永遠ではないのかもしれない。
だけど、服に付いた頑固な汚れのように、変な声だからこそ誰かの記憶にベッタリと付着したりして。
あなたの思い出の中で、私とのやり取りがこの変な声で再生されるなら、肉体はなくなっても私という人間は生き続ける。
ああ神よ仏よお父さんお母さん、変な声をありがとう。
でもやっぱり、次はイカした低音ボイスで生まれたいな。