飲料の自動販売機の前。
なんとなく喉を潤したい気がするが、自分は何を求めているのだろうか。
容器や容量はどんなものがよいのか、温かいものか冷たいものか、欲しているのはどんな味か。
自分の中にある選択基準に耳を傾ける。
この世は選択で満ち溢れている。
というよりもむしろ、生きるということは選択することの連続なのかもしれない。
毎日同じ餌しか与えられない猫も、食べるタイミングを選んでいる。
自動販売機の前ならいざしらず、日々膨大な選択肢の中から人は何かを選んでいる。
好きなタレントやミュージシャン。
誰にタレント名鑑を渡されたわけでなくても、膨大なリストの中から自分の選択基準を満たすものを見付けるのはすごいことだ。
自分とは別の人間である以上、そのタレントのすべての側面が自分の理想であるとは限らない。
にもかかわらず数ある選択肢の中からそれを選んだということは、ともすれば嫌いな側面もありながら、好きな側面が上回るからして自分の選択基準を満たしたということなのだろうか。
しかし
「2000年代はあんなに応援していたのに、最近の○○の曲は全然好きじゃないから距離を置いてるの」
なんてことも少なくないから、選んだ先にもまだ選択が待っている。
「選ばないことを選ぶ」ということもある。
私にお気に入りの浪曲師がいないように、投票権を持っていても白票を投じることだってできる。
それもまた一つの選択だ。
どうしても白票を投じることが嫌なときは、基準をグッと下げて引っかかるものを探す。
時に消去法と呼ばれる方法を以ってして。
ネガティブな響きが漂うその言葉も、意思をもって選んだ結果にほかならない。
「どれにするのよ」
自動販売機の前で妻が気をもんだ声を出す。
「ジュースを選ぶくらいボーっとしてないで早くしてよ」
「ちょっと待ってよ、自分の中の選択基準が…」
既婚者である私は選んだ身でもあり、選ばれた身でもある。
「最近のあなたは…」などと言われぬよう、いつまでも最適の選択でありたいものだ。